塩原橋/本所に過ぎたる炭屋塩原がその名の由来(墨田区-堅川)

ブリッジ
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“本所には過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原”と謡われた、塩原太助(しおばらたすけ)が塩原橋(しおばらばし)の由来です。歌舞伎や落語の題材としても有名な塩原太助の炭屋は、この橋のすぐ北側にあったようですよ。

 

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塩原太助とは

写真の中央下あたりに小さな看板がありますが、このマンションが建っているあたりがかつての塩原太助の炭屋跡です。

塩原太助は実在の人物で、1743年に生まれ、文化年間に商人として大成功を収めました。もともとは上野国(群馬県みなかみ町)出身ですが、18歳のころに江戸に出てきて、職を転々としながらも40歳を超えてから炭屋として大成し、“本所には過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原”と謡われるまでの大商人になりました。

成功の理由は、塩原太助が売り出した炭団。木炭の粉を丸くこね固めたこの炭団が大当たりしたことで、落語に講談に浪曲など、様々な分野で作品化されるほど、ドラマチックで大いに浮き沈みのある人生になったのでした。

1781年(天明元年)当時、本所相生町(両国三丁目あたり)に住んでいた塩原太助が、亀戸天神に寄進した灯篭は、今の亀戸天神の境内に残っています。

塩原太助炭屋跡

 

ちなみに本所にあった過ぎたるもののもう片割れ“津軽屋敷”とは、その名の通り、江戸時代にあった津軽藩の屋敷のことです。当時はまだ宅地造成中の新開地だった本所エリアですが、津軽藩の上中下の各屋敷はすべてこのエリアにあったのでした。もともとは神田のあたりにあったものが、移ってきた歴史があったようです。

 

塩原橋からの風景

塩原橋上から東側を望む

塩原橋から東側を眺めるこんな感じです。

首都高速7号小松川線の高架がダイナミックに堅川とシンクロしています。川の上に高速道路がはしっているパターンは東京都内でも結構ありますが、その中でもかなり感じのよい重なりかたをしてると感じます。高架の高さゆえかもしれません。

川面の揺らぎは風によるものですが、“波”とまではいかない、よい塩梅。

 

塩原橋の歴史

歴史の古い塩原橋は、当然ながらもともと木橋だったわけですが、現在のその名残が欄干に残されています。この木材が建築当時のものであるかどうかはわかりませんが(さすがに違うと思うけど)、このように昔の名残を今に伝える工夫がされているのはとてもよいことですよね。

塩原橋付近の堅川両岸は最近整備されて、かなり幅のある遊歩道になっています。

岸壁にそっては小さなクルーザーがの係留地になっています。ここの貸主は墨田区なのかな?

塩原橋の南詰あたりから西側をみたところです。隣にかかる一之橋(いちのはし)がみえますが、水門のせいでその先にある東京一の川、隅田川までは見通すことができません。

一之橋/隅田川から一つ目だから一之橋(墨田区-堅川)
墨田区と中川を東西につなぐ堅川(たてかわ)に架かり、隅田加賀から数えて一番目の橋、それが一之橋(いちのはし)です。長谷川平蔵が活躍する池波正太郎の人気時代小説「鬼平犯科帳」にも、“一ツ目橋”としてその名が確認できます。

 

おしまい

景色 ★★

容姿 ★★

価値 ★★★

江戸、そして本所の歴史を今に伝える塩原橋。一見、首都高速下の地味な橋なのですが、木製の欄干やその歴史などには注目する価値があります。東京の、そして江戸の底力と魅力を、しみじみと感じさせる橋ですね。

行き方(アクセス):JR両国駅から徒歩7分ほど、都営大江戸瀬・新宿線森下駅から徒歩10分 ほど

 

【プロフィール】

30代後半、東京のどちらかと言えば東側で暮らしている美人姉妹の父。それなりに多忙な仕事と育児の合間を縫って、せっせと街や川辺や密林をはいかいしています。好きなモノやコトは、歩く、食べる、酒、旅、買いもの、本、写真、春秋、建物、007、自宅、妻子

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