明治27年(1894)生誕、後に第一回目の重要無形文化財(人間国宝)にも認定された陶芸界の巨匠・濱田庄司(はまだしょうじ)。栃木県の益子や沖縄壺屋のイメージが強い濱田庄司ですが、実は川崎市生まれ。彼は、生涯この地から住民票を写さなかったといいます。
濱田庄司ってどんな人?
陶芸、特に民芸好きの間でハマショーと言ったら、浜田省吾でも浜田翔子でもなく、濱田庄司ということになります。
初期の民芸運動を支えた巨人の中でも、バーナード・リーチや河井寛次郎と並び陶芸家としてその運動を牽引した最重要人物の一人です。
後に、民芸の祖こと柳宗悦から引き継ぐ形で、東京駒場の日本民藝館の第二代館長も勤めました。
その他、1970年大阪万博の日本民芸館パビリオンの名誉館長や、大阪日本民藝館の初代館長などを勤めたことでも知られています。
1955年に人間国宝(工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定、1964年に紫綬褒章の受章、1968年に文化勲章を受章と、国を代表するアーティストとして晩年まで大活躍しました。
濱田庄司の生い立ち
庄司は、神奈川県川崎市、現在の溝の口駅付近で生まれました。その後、東京府立一中(現在の東京都立日比谷高校!)、東京高等工業学校(現在の東京工業大学!)窯業科へと進学しました。
長い付き合いになる河井寛次郎は、東京高等工業学校の2つ先輩です。
学校を卒業した庄司は、寛次郎と共に京都私立陶芸試験場で活動をはじめ、そこでバーナード・リーチとの運命の出会いを果たします。
ちなみに柳宗悦や富本憲吉らと出会ったのもこの京都の試験場でした。
1920年、リーチの帰国についていく形で英国に渡り、以降1924年までセント・アイヴィスで作陶生活を送りました。英国で開催した個展もたいへん好評を博し、庄司は大いに自信をつけたと伝わっています。
英国での豊かな自然に囲まれた作陶生活を理想として帰国した庄司は、沖縄などを巡ったのち、益子焼きの産地である栃木県益子町を本拠地として作陶に勤しみました。
益子には、蒐集した世界中の民芸品を展示するために庄司が建てた益子参考館が今もあり、世界中から訪れる民芸ファンや私を楽しませています。
記事のトップ画像は、10年ほど前に参考館で撮影したのですが、なんの写真だったのかは忘れてしまいました。笑
「陶芸家 濱田庄司」生誕の地碑
東急田園都市線「溝の口駅」の南口から徒歩すぐ、川崎第一ホテルの前の歩道沿いに「陶芸家 濱田庄司」生誕の地を示す石碑が建っています。街中!
あまりにも唐突なので、遠目にはまったく気がつきませんが、近づくとかなり大きいことがわかります。
陶芸家として土を愛した庄司ですから、台座にもこだわりが。
一番上は益子の赤色陶土、中段は釉薬による白色、下段は囲炉裏灰による黒色と、とてもこったデザインです。
碑銘は「巧匠不留跡」。
すぐ横の説明板には『「陶匠は跡を留めず」の意である』と書いてありますが、これだとよくわかりませんね。笑
少し調べてみると、禅の教えにある「名工は細工の跡を残さない」というのが意図するところのようです。細工の跡とは何を指すのでしょうか? 例えばその作者らしさや、超絶技巧を伝えるディテールということなのか。
庄司の作風を見ると、確かにそういったものからは距離をおき、あくまでも大らかに、素朴に、のびのびと”民芸”を追求していたのだということがわかります。とは言え「なんだか濱田庄司っぽいぞ」なんてことは感じるわけですが、そこが巨匠たる所以ですね。笑
石碑のすぐ隣には「庚申塔と大山道標」
石碑までの行き方
東急田園都市線「溝の口駅」の南口を出て、右手に進みます。
道の向こうには見えるのは、高津区役所。下の写真の前方に見える最初交差点を右折すると、その先50mほどのところに石碑があります。
ほんとに駅そば、1分ほどで到着。途中下車でも、10分あれば往復できちゃいますよ。
溝の口には、この石碑の他にも、濱田庄司にまつわるスポットがたくさん。墓所である宗隆寺をはじめ、庄司の生家である和菓子店「大和屋」も、「ケーキ大和」として現存しています。
溝の口に来る機会も多くはないと思いますので、合わせて訪れてみてはいかがでしょうか?